「文化装置」としてのスポーツ・イベント ―1950年代までの国民体育大会に関して―

観行 智信

国体は、戦後スポーツの再建と密接に関わって開催されたスポーツ・イベントであるが、1950年に行われた愛知国体は、開催地域住民に対して、現存の支配構造に関する自発的同意を導き出すための「文化装置」として初めて設定された大会だった。当時の日本は、戦後復興・国民国家の再建の道を歩みながらも支配構造が不安定な状況であり、その中で愛知国体は、民族を束ね、天皇制秩序を国民レベルで体現する場・空間として位置づけられ、その開催を通じて民主社会における天皇と民衆との関係の形成・強化やナショナリズムの昂揚が図られた。また、愛知県などの開催地域行政は、地域住民の組織化・統合化や地域開発の手段、「安全弁」として独自に大会を位置づけ、その開催に住民を巻き込むために、学校とマス・メディアが、その媒体として働き、特に新聞が大きな役割を果たした。

その中でも愛知県民に大きな影響力を有していた『中部日本新聞』は、愛知国体を「文化装置」として作動させるために、その言説を通じて、地域住民の主体的な大会関与と当時の支配構造に関する自発的同意を導き出すためのイデオロギー操作を行った。そして、その操作では、「健全な文化としてのスポーツ−民主主義社会−象徴天皇」の接合を「フェア・プレイのスポーツマンシップ」を媒介に行い、さらに、その接合過程を通じて、スポーツの熱狂を「平和」と「民主主義」を媒介とした戦後日本の「国体」ナショナリズムの昂揚につなげようとしたのである。

そして、愛知国体以後の国体は、このような役割を担いながらも、開催地域行政の財政赤字に大きな影響を与えるものとして開催された。これに対して「逆コース」による地方自治の中央集権化を強行していた政府は、1957年の静岡国体の中止を決めた。しかし、保守合同と高度成長の動きが始まる中で、国体の地方開催は、住民統治・地域開発の手段、「集票マシン」として位置づけられたのである。そして、静岡国体は、より地域レベルの「文化装置」に変容した大会として開催され、工場誘致による地域開発や産業構造の転換などを図りたい静岡県行政・財界の意図が「健民運動」に反映された。これにより、住民を大会に動員するための「健民運動」は、地域の行政施策・支配構造に関する住民の自発的同意を導き出すための「文化装置」として独自の役割を担うようになった。